参拝のご案内

大般若経六百巻

【重要文化財 指定年月日  平成2年11月3日】

大般若経六百巻(だいはんにゃきょうろっぴゃくかん)天海本の初版

大般若経六百巻(だいはんにゃきょうろっぴゃくかん)天海本の初版

医王寺所蔵の「大般若経」一部六百巻は、正保2年(1645)、江戸時代前期の大名、松平右衛門太夫正綱(まつだいらうえもんだゆうまさつな)(1576年~1648年)から鎌田山薬師堂へ寄進されたものです。

松平正綱は、天正4年(1576)三河国額多郡大河内郷(現岡崎市大平付近)より起こった大河内氏11代目の孫、大河内秀綱の次男として遠江に生まれ、徳川家康公の命で長沢松平(三河松平氏=18松平のうち宝飯郡、音羽町)の正次の養子となりました。
大河内秀綱は、徳川家康公に仕え、三河・遠江の租税という大変重要な役目を司った人物でした。

松平正綱は、文禄元年(1592)から徳川家康公にお仕えし、慶長元年(1596)に領地380石余を与えられました。慶長5年(1601)関ケ原の戦に参戦し、のちに右衛門太夫と称しました。
また、駿府の徳川家康公のもとで板倉重昌、秋元泰正とともに近習出頭人の地位にあり、元和元年(1615)から勘定奉行を勤めました。寛永2年(1625)加増されて22,100石余を拝領し、大名の地位に列しました。
松平正綱は、関八州の代官、改易大名の城地収公、造営や法会の監督・指揮、日光道中杉並木の植樹などにも携わり、あらゆる面で才能を発揮した大名でした。

大般若経は「大般若波羅蜜多経」の略称で、インドヘ渡って仏典を学んだ唐の僧侶、玄奘三蔵が帰国後の633年に漢訳した教典です。日本へ伝来した大般若経は、「鎮国の典、人天の大宝」といわれ、「国家安穏、除災招福」「現世安穏、追善菩提」を目的に、写経、版本、転読、真読が盛んに行われていました。

医王寺においても、大般若経一部六百巻を転読あるいは真読する法会(大般若会)が年中行事として行われていたと考えられます。

医王寺所蔵の大般若経は天海僧正が復刻を志した、大蔵経典の一部で、天海本と称されています。医王寺にはその天海本の初版本が600巻、1巻も欠けることなく完全な形で現存しており、今も非常に大切に保管しています。

天海僧正は、徳川家康の相談役として有名ですが、生前中には大般若経六百巻の復刻事業を完成させることは出来ませんでした。版木が完成し、初版本が刷られたのは正保2年(1645)5月17日であり、天界僧正の亡くなった後、弟子たちがその遺志をついで完成させたのでした。
医王寺に現存している、天海本の大般若六百巻には、「現世安穏、武運長久、後生善生、頓證菩提」という願い事と、松平右衛門太夫正綱からの寄進である旨の一文と、最後に決して無くすことなかれと結ばれています。

天海本の大般若六百巻初版本が非常に貴重とされるのは、初版本の版木の原版は焼失してしまっているため、今後新たに刷られることはなく、現存している物しか無いためです。

また、医王寺には、この大般若経を奉納した松平正綱の書状のほか、正綱の養子となった松平信綱(江戸時代前期の幕府老中)など、松平氏・大河内氏(三河国吉田藩主)の江戸時代前期の貴重な書状が残されています。

なお、中世の戦国時代において、武田信玄が遠江に出兵のおり、医王寺から大般若経が持ち出されたと伝えられています。
その大般若経典は、医王寺に現存する天海本の大般若経典よりもさらに古いものであり、南北朝時代のものと推定されています。
現在は、山梨県塩山市にある、真言宗智山派の放光寺にて大切に保管されています。

当時、武田信玄が持ち出した大般若経が遠く山梨県にて同じ真言宗智山派の寺院である放光寺に保管されているということは歴史のロマンを感じるとともに、仏さまのご縁を感じる事柄です。